ルーシー・リーの作品は、たぶんこれまでにも何度か見て来たのだと思う。
その昔、ヨーロッパ滞在中(当時は若き画学生でした←私)には、100を越える美術館を巡り、その前も、その後も、自分の触角にピピンと来たら遠くの美術館へも足を運び、美術書のページを繰った。
それで、もうだいたいの(自分が好きになりそうな作品との)出逢いは済ませているような気になっていた。
でも、まだルーシー・リーには出逢ってなかったのだ、と昨日心からそう思った。
こんな大袈裟な言い方をしたくなるくらい、ルーシー・リーの作品は久しぶりに私の心を揺さぶってくれた。
ルーシー・リーは、オーストリアでユダヤ人として生まれ、第2次世界大戦のナチスから逃れてイギリスへ。
そして、ルーシー・リーの制作の舞台は、ウィーンからロンドンに移る。
特別多作ではないのかもしれない。でも、秀作をこれだけ一度に見ると、いかに彼女がブレずに自分のすべてを作品に注ぎ込んで来たかがよく解る。
彼女一人で、少なくとも50年分の陶芸デザインの針を進めたと言っても過言ではないほど、
新しく、けれど完璧に完成している。そのブレのなさにただただ驚く。
釉薬のストックを持たず、必要な釉薬はほとんどそのたびに乳鉢で混ぜ合わせてう作ったという。化学実験のように、マンガンや酸化ウランやクロムをかけあわせていたという。
その結果、独特のテクスチャーやあのルーシー・ピンクや、ルーシー・イエローが生まれたのだ。
彼女の父が医者、母は名門家の出、そして一人の兄が芸術、もう一人の兄が科学の分やで秀でていたこと、東洋陶磁に詳しかったバーナード・リーチや、理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガー、共同制作したハンス・コパー等に親しく影響を受けたこと・・すべては偶然のようで必然としてルーシーの中に入り込みその作品の生み手として育て上げたのだとあらためて思う。
彼女の作品はそれくらい大きな世界を飲み込んでいる。
彼女は結婚してはじめて住む家の内装を建築家エルンスト・プリシュケに任せ、当時のヨーロッパでは前衛的な装飾を排したミニマムな空間に住むようになる。
その家が彼女のデザイン志向とマッチし、「住宅と調和する陶器」を創作のモチベーションになったという。
ルーシーは長くずっとずっと先を歩き、そして、ようやく今、時代の方がようやく彼女の世界に追いついたのだ。かろうじて。
えらく熱く語ってますね。
とにかく、何が言いたいかと言うと、昨日、ルーシー・リーにあらためて出逢えたことが、何をおいても嬉しいということ。
(&いい作品に出逢えたことがこれほど嬉しいという気持ちが自分にまだ残っているということ。)
そして、まだ行ってない人は是非行って下さい!というメッセージを伝えたかっただけ。
大阪展(於:東洋陶磁美術館)今週一杯!です。
あ〜、、できればガラス越しでなく、実物にさわりた〜い!!